話題沸騰中の 百人一首7番・阿倍仲麻呂「天の原」の意味と生涯帰れなかった悲劇の真相について、多角的な視点を分かりやすく掲載しています。

阿倍仲麻呂は文武天皇2年(698年)、大和国の有力貴族の家に生まれました。幼少期から学問に秀でていた仲麻呂は、霊亀2年(716年)、19歳の若さで第9次遣唐使の留学生に抜擢されます。この船には、後に日本の国政を担うことになる吉備真備や、名僧・玄昉も同乗していました。

当時の唐は、第6代皇帝・玄宗の治世であり、「開元の治」と呼ばれる繁栄の絶頂期にありました。長安(現在の西安)に入った仲麻呂は、唐名を晁衡(ちょうこう)と名乗り、最高学府である国子監で学びます。卓越した才能を発揮した彼は、外国人の身でありながら超難関の官吏登用試験「科挙」に合格したと伝えられています。

科挙の合格後、仲麻呂は玄宗皇帝の側近として仕え、門下省の左拾遺や秘書監(宮中の図書管理長官)といった要職を歴任しました。唐の朝廷において外国人がこれほどの高官に登りつめるのは極めて異例であり、その学識と高潔な人柄は長安の都で誰もが認める存在となっていきました。