東京都足立区島根の長屋で暮らしていた北野菊次郎は、腕の立つ塗装職人(ペンキ屋)でした。当時の下町における職人社会において、漆喰やペンキ塗りの技術は確かで、仕事仲間からの信頼も厚かったと伝えられています。しかし、家庭内における彼の立ち位置は、極めて特異かつ歪なものでした。
北野武が自著や数々のテレビ特番インタビューで述懐している父親像は、徹底した「二面性」に彩られています。素面のときの菊次郎は、挨拶すら小声で近隣の住人にペコペコと頭を下げ続けるほど内気で小心な男でした。ところが、一合でも酒が入ると態度は豹変し、ちゃぶ台をひっくり返し、妻や子どもたちに怒声を浴びせる典型的な昭和の酒乱へと変貌を遂げたのです。
この極端な二面性の背景には、生い立ちに起因する根深い劣等感がありました。菊次郎は正規の教育をほとんど受けることができず、文字の読み書きが不自由でした。戦前の厳しい階層社会のなか、徒弟制度の徒弟として幼少期から現場へ駆り出され、技術一本で生き抜くしかなかった過去が、彼の心に癒えない傷を残していたと分析されています。知的な会話を交わすことができず、自己表現の術を暴力と酒にしか見出せなかった職人の悲哀が、長屋の狭い一室に常に充満していました。
息子の武が漫才コンビ「ツービート」として浅草の舞台に立ち、世間の脚光を浴び始めた頃、菊次郎の肉体は長年の過度な飲酒によって限界を迎えていました。1979年、肝不全のため病院で息を引き取ります。武が全国的な漫才ブームで時代の頂点へと駆け上がる、わずか直前のことでした。臨終の際、父が遺品として残したのは、古びたマッチ箱と、震える手で何度も息子の名前を練習した形跡のある数枚の紙切れだけだったと語られています。言葉で愛情を伝えることのできなかった不器用な男の最期は、武の胸に拭い去ることのできない悔恨を刻み込みました。