加藤高明内閣は何をした?普通選挙法と治安維持法「飴と鞭」の真相の具体的な内容に迫る! わかりやすい言葉で紐解きます。

歴史学習者や近現代史ファンが最も強い違和感を抱くのが、「民衆に権利を与える普通選挙法」と「思想を取り締まる治安維持法」がなぜワンセットで制定されたのかという点です。学校教育の現場では「飴と鞭の政策」として広く知られていますが、その深層には凄まじい政治的妥協劇が存在していました。

当時、民衆運動の後押しを受けて成立した普通選挙法は、長年の懸案事項であった納税資格の完全撤廃を実現させました。それまでの衆議院議員選挙法では「直接国税3円以上」といった財政的要件が課されており、有権者は全人口の約5.5%(約330万人)に過ぎませんでした。しかしこの改正によって、有権者数は一挙に約1,250万人(全人口の約20%)へと4倍に跳ね上がったのです。

しかし、この急激な大衆化に猛烈な危機感を抱いた勢力が存在しました。山県有朋亡き後の元老・西園寺公望を筆頭とする元老層、枢密院、そして特権階級の牙城であった貴族院です。当時の支配層は、1917年のロシア革命の余波が日本国内の労働運動・小作争議に波及することを極度に恐れていました。「無産階級(労働者・貧困層)に投票権を与えれば、日本が赤化(共産主義化)してしまう」という強固な恐怖心です。

加藤高明率いる憲政会としても、貴族院の同意を取り付けなければ普通選挙法を成立させることは不可能でした。そこで、貴族院や枢密院を納得させるための「担保」として差し出されたのが治安維持法の制定だったのです。

法案成立の時系列を精査すると、治安維持法の公布(1925年4月22日)は、普通選挙法の公布(1925年5月5日)よりも先に行われています。つまり、政権側は「治安維持という防壁を先に完成させたからこそ、普通選挙という大門を開くことができた」というのが歴史の冷徹な事実です。民衆の歓起を誘う「飴」を手渡すために、国家権力による監視という強大な「鞭」を用意せざるを得なかった統治機構のジレンマがここにありました。