宮部鼎蔵の生涯を語る上で欠かせないのが、長州藩の思想的指導者・吉田松陰との深き絆です。両者が出会ったのは嘉永3年(1850年)から翌年にかけての江戸遊学時代。当時30代前半の宮部に対し、松陰は20代前半の青年でした。10歳の年齢差がありながらも、山鹿流兵学という共通言語と強烈な国防意識によって、二人は瞬く間に意気投合します。
松陰は宮部の沈着冷静な人柄と深い洞察力に惚れ込み、宮部もまた松陰の純粋無垢な情熱を惜しみなく評価しました。二人の絆を象徴する歴史的事件が、嘉永4年(1851年)の「東北遊学」です。ロシア船の南下など緊迫する北方警備の実態をこの目で確かめるため、二人は東北地方への視察旅行を計画します。
しかし出発予定日の12月14日、長州藩からの正式な通行手形(過所)が期日までに届きませんでした。手形を待てば計画は数ヶ月遅れることになります。この時、吉田松陰は「友との約束を違えることは、武士の信義に反する」として、藩法を破る死罪覚悟の脱藩を決行。宮部鼎蔵と共に出立したのです。
水戸での会沢正志斎との会談、津軽海峡の視察など、数千キロに及ぶ過酷な旅の記録は松陰の『東北遊日記』に克明に記されています。松陰はその中で「吾が友、宮部」と何度も敬意を込めて呼び、旅先で激論を交わしながら国家の未来を憂えた日々の熱量が紙面から溢れ出ています。松陰が安政の大獄で散る際にも、宮部に対して深い感謝と信頼を綴った手紙を遺しており、二人の関係は単なる政治的同志を超えた「魂の友」でした。