京都の洛中とはどこまで?御土居と田の字地区に迫る境界の真相【2026】の真相や最新動向に迫る! わかりやすい言葉でご紹介しています。

「京都の洛中の範囲はどこからどこまでなのか」という疑問に対する学術的かつ決定的な回答は、豊臣秀吉が1591年(天正19年)に築造した「御土居(おどい)」の内側です。しかし、そこに至るまでには千年に及ぶ都市構造の変遷が存在します。

そもそも「洛中」という言葉の語源は、古代中国の都「洛陽」に由来します。794年の平安遷都時、平安京と条坊制の歴史において、都の中央を南北に走る朱雀大路を挟んで東側を「左京(洛陽)」、西側を「右京(長安)」と呼びました。湿地帯が多かった右京が急速に衰退した結果、市街地が左京側に偏って発展し、京都全体を「洛陽」、都の内部を「洛中」、その周辺部を「洛外」と呼ぶ習わしが定着しました。

応仁の乱(1467〜1477年)によって市街地は灰燼に帰し、京都は上京(かみのきょう:武士や公家)と下京(しものきょう:町衆・商人)の二つの自治都市に分裂しました。荒廃した京都を再統合し、明確な物理的境界線として線引きしたのが豊臣秀吉です。秀吉は京都の周囲を全長約22.5kmにわたる土塁と堀でぐるりと囲む「御土居」を築きました。当時の記録や京都市埋蔵文化財研究所の調査資料によると、御土居の内側を「洛中」、外側を「洛外」と法的に明確に区別し、税制や治安維持の基準としたのです。

御土居の内側は、おおむね以下のような範囲でした。

  • 北端:大徳寺の南側、紫野・鷹峯付近(北山通より南)
  • 南端:九条通付近(東寺の南側)
  • 東端:鴨川西岸付近(現在の河原町通東側堤防沿い)
  • 西端:西大路通と紙屋川(天神川)沿い付近

この御土居で囲まれたエリアこそが、歴史学・都市史において定義される厳密な「洛中」の原点です。