巨大な迷宮都市がなぜ解体されるに至ったのか。直接の契機となったのは、1984年に締結された「中英共同声明」です。1997年の香港返還が確定したことで、長年イギリスと中国の双方が棚上げにしてきた九龍城砦の領有権問題に決着をつける政治的土台が整いました。両国政府にとって、植民地支配の残滓であり衛生・防衛上のアキレス腱でもあったスラム街を放置することは、近代国家としてのメンツに関わる課題だったのです。
1987年1月、香港政庁は突如として九龍城砦の全面解体計画を発表。これに対し、長年培った生活基盤を奪われる住民たちは猛反発し、激しい反対運動が巻き起こりました。事態を収拾するため、香港政庁は総額約27億香港ドル(当時のレートで約500億円超)にのぼる巨額の補償予算を計上。家屋の所有者や借家人、店舗経営者に対して段階的な立ち退き補償金を支給し、新界地区などの公営住宅(新公屋)への優先入居権を付与しました。
1993年3月、最後の住民が立ち退きを完了し、取り壊し工事が本格化。1994年には迷宮と恐れられたビル群のすべてが完全に地上から姿を消しました。跡地は大規模な整備を経て、1995年12月に「九龍寨城公園(Kowloon Walled City Park)」として一般開放され、清朝時代の江南庭園様式を模した広大な中国庭園へと生まれ変わりました。
2026年現在の九龍寨城公園を訪れると、かつての威容を示す人工の山や池、緑豊かな遊歩道が広がり、当時の薄暗い喧騒を想像することは困難です。しかし、発掘調査によって姿を現した清朝時代の衙門(役所建築)や「九龍寨城」と刻まれた南門の石製扁額、大砲の台座、そして精巧に作られた城砦全体の縮尺ブロンズ模型が常設展示されており、歴史の証人として静かに過去を物語っています。
一方で、立ち退きを余儀なくされた元住民たちの「その後」は平坦なものばかりではありませんでした。近代的で清潔な高層公営住宅を手に入れたものの、かつて城砦内で当たり前だった「隣近所が互いに子どもを預け合い、鍵をかけずに助け合う濃密な共同体」は完全に解体されました。元住民を対象とした追跡インタビューでは、近代的な孤立生活に直面し、「プライバシーと引き換えに、孤独を買うことになった」「あの暗くて狭い砦の暮らしのほうが、人間らしく笑い合えていた」と振り返る高齢者の声が数多く記録されています。