1473年にポーランドのトルンで生まれたコペルニクスの生涯と経歴は、単なる天文学者にとどまりません。名門クラクフ大学やイタリアのボローニャ大学、パドヴァ大学で教会法、医学、数学、天文学を修めた万能の知識人であり、本職はヴァルミア司教座聖堂の参事会会員(カノン)でした。行政官、医師、さらには通貨改革を提言する経済学者としても手腕を発揮していたのです。
彼が地動説の骨子をまとめた小論『コメンティオルス(小論考)』を執筆したのは1510年頃とされています。しかし、その集大成である主著『天球の回転について』がニュルンベルクで印刷・出版されたのは、彼が脳卒中で倒れ息を引き取る1543年のことでした。実に30年近くもの歳月、発表を躊躇し続けた計算になります。
地動説が反対された理由として、後世では「キリスト教会による異端審問や弾圧を恐れたため」と語られがちですが、当時の歴史的文書を検証すると別の実態が浮かび上がります。
最大の理由は、当時の天文学界や大学のアカデミアからの激しい嘲笑と反論を警戒したことでした。当時の物理学(アリストテレス自然学)では、「もし地球が猛スピードで動いているなら、なぜ地上の人間は吹き飛ばされないのか」「真上に投げた石が元の場所になぜ落ちてくるのか」という問いに答える慣性の法則がまだ確立されていませんでした。完全主義者であったコペルニクスは、理論の不備を突かれることを極度に嫌い、弟子のレティクスらの熱心な説得を受けるまで印刷許可を出さなかったのが真相です。