鹿鳴館といえば、毎夜のように繰り広げられた舞踏会が連想されます。明治政府の高官やその妻、華族令嬢たちは、急速な西洋化の要請によって生活様式の激変を強いられました。
着物と日本髪に慣れ親しんでいた当時の日本人女性にとって、骨盤を締め付けるコルセットを身につけ、背中を大きく開けた夜会服(ローブ・デコルテ)を着こなすことは過酷な試練でした。社交ダンスのステップやテーブルマナーを習得するため、外国人教師を招いて連日猛特訓が行われたと記録されています。
しかし、その努力が欧米諸国からそのまま賞賛されたわけではありませんでした。当時日本に滞在していたフランス人作家ピエール・ロティは、著書『秋の日本』の中で鹿鳴館の舞踏会を「操り人形の猿の踊りを見るようだ」と辛辣に描写。さらに、フランス人画家ジョルジュ・ビゴーは、洋服を着た猿が姿見を覗き込む姿を描いた痛烈な風刺画を発表し、中身が伴わない急速な西洋模倣を嘲笑しました。
一方で、単なる滑稽な模倣で片付けられない実績を残した女性たちも存在します。日本初の女子留学生としてアメリカに渡り、名門ヴァッサール大学を卒業した大山捨松(旧姓・山川)や、外交官夫人として高い教養を誇った鍋島栄子らは、流暢な英語と洗練された社交術で外国人外交官たちを驚嘆させました。彼女たちの存在は、単なる表面的な洋装にとどまらない、日本の女性教育と国際教養の萌芽を示すものでもありました。