「嬲」という漢字を初めて目にした人の多くは、その文字の形態から直感的に不穏な事件やサスペンスの光景を想像しがちです。しかし、漢字本来の成り立ちを漢字学の金字塔である後漢時代の字典『説文解字(せつもんかいじ)』まで遡ると、意外な真実が記されています。
『説文解字』において「嬲」は「相戯れるなり(たがいにたわむれるなり)」と定義されています。古代中国におけるこの会意文字は、二人の男性が一人の女性を囲んで親しげにおしゃべりをしたり、軽口を叩き合って騒いだりする「戯れ遊ぶ様子」を文字化したものでした。そこにあったのは陰惨なリンチや暴力ではなく、若者たちの陽気なからかい合いや恋愛遊戯のスケッチだったのです。
しかし、時代が下るにつれて「戯れる」という行為が持つ軽薄さや、一人の女性を二人の男性が冷やかす構図の危うさが強調されるようになります。中国の俗語表現や明清時代の白話小説などを経る過程で、次第に「からかい惑わす」「手玉に取る」といったからかいのニュアンスが強まり、日本へ漢字が移入された段階で、大和言葉が元々持っていた特定の動詞と結びつくことになります。
現代の辞書(広辞苑や新潮現代国語辞典など)における「嬲るの読み方と意味」を確認すると、以下の3つの段階に分類されます。
- 第1義(古語・方言的用法):手で触れる、いじくる、無目的に弄ぶ(例:髪の毛をなぶる)。
- 第2義(近世以降の共通語):からかう、嘲弄する、愚弄して面白がる(例:弱者をなぶる)。
- 第3義(派生した過激表現):苦しめる、いたぶる、肉体的・精神的に追い詰める(例:嬲り殺しにする)。
古代の無邪気な「戯れ」が、中世から近世、そして現代に至る過程で人間の残虐性や支配欲を象徴する語へと暗転していった足跡は、言語がいかに社会の倫理観や物語の劇的効果によって変容するかを雄弁に物語っています。