1960年代、テレビの普及によって観客数が激減していた日本映画界を救ったのは、東映が放った一連の任侠路線でした。その中核に君臨したのが、鶴田浩二と高倉健という対照的な2大スターです。
戦前の名残を残す哀愁とニヒリズムを漂わせ、傷ついた軍人の影を背負いながら銀幕に立った鶴田浩二は、まさに情念の象徴でした。東映公式アーカイブや当時の映画誌が記録している鶴田浩二東映作品まとめを振り返ると、『人生劇場 飛車角』(1963年)を皮切りに、『博徒』シリーズや『傷だらけの人生』(1971年)など、数々の大ヒット作を連発。右耳に手を当てて哀愁の歌声を響かせる独特のポーズは日本中で模倣されました。鶴田は生前、自身の手記やインタビューにおいて「男の美学とは、理不尽に耐え、決して言い訳をしない陰影のなかにしかない」と語っており、義理と人情の板挟みで命を散らす主人公の悲哀は、激変する社会で組織の歯車として生きるサラリーマンたちの心を強く揺さぶったのです。
一方、鶴田のウェットな情念に対して、ストイックな肉体性と沈黙のリアリズムで時代の頂点に立ったのが高倉健でした。高倉健任侠映画代表作と経歴を検証すると、初期は現代劇やアクションコメディで模索を続けていたものの、1964年の『日本侠客伝』、翌1965年から始まった『網走番外地』および『昭和残侠伝』シリーズでその才能が完全に開花します。「唐獅子牡丹」の主題歌を背に、白い晒を巻いて降りしきる雪の中を歩く高倉の姿は、高度成長期の過酷な現場で働く労働者層から熱狂的な支持を集めました。耐えて耐えて、最後の最後で怒りを爆発させるクライマックスの構造は、当時の学生運動に身を投じた全共闘世代の若者たちの心理にも深く刺さり、三島由紀夫をはじめとする多くの知識人をも虜にしました。