慶喜の写真への偏愛は、単なる気まぐれな趣味にとどまらない。その原点を辿ると、1867年のパリ万国博覧会へと行き着く。慶喜の名代として海を渡った弟・徳川昭武が持ち帰った最先端の西洋文明、その中に黎明期の写真機があった。ヨーロッパで急速に発展していた銀塩写真の技術と視覚文化は、若き昭武を通じて慶喜の知的好奇心に決定的な火をつけた。
刀を捨て、政治の表舞台から完全に身を引いた静岡での日々。慶喜は自ら暗室にこもり、感光剤の調合からガラス乾板の現像、プリントの焼き付けに至る全工程を自らの手でこなした。失敗を恐れず、試薬の配合をミリ単位で調整し、露光時間を厳密に計算する。その徹底した探求心は、かつて幕政改革を主導した緻密な頭脳そのものだった。