藤原定家の生涯と経歴を語る上で避けて通れないのが、専制君主であり稀代の歌人でもあった後鳥羽上皇との複雑な愛憎劇です。若き定家は父・藤原俊成の薫陶を受け、卓越した才能を後鳥羽院に見出されて『新古今和歌集』の正撰者に抜擢されました。しかし、美意識の衝突や定家の気難しい性格が災いし、両者の関係は次第に緊張を孕んでいきます。
決定的な亀裂が入ったのは建保6年(1218年)頃からの対立でした。定家は後鳥羽院の歌会を欠席するなど反骨精神を露わにし、院の怒りを買って勅勘(謹慎処分)を受ける事態に発展します。さらに承久3年(1221年)の承久の乱で後鳥羽上皇が鎌倉幕府に敗北し、隠岐島へ配流されると、定家を取り巻く政治環境は一変しました。
百人一首において、配流された後鳥羽院(99番)と順徳院(100番)の歌が巻末近くに配置されている点には、かつて主君であり芸術上のライバルであった敗者たちに対する、定家なりの複雑な敬意と追悼の情が色濃く反映されています。幕府への配慮と旧主への思慕という板挟みの中で、定家は歌人としての矜持を貫いたのです。