タモリと赤塚不二夫の真実|居候の逸話と白紙の弔辞に秘めた絆を詳しくリサーチ! 読者が気になる 重要ポイントを分かりやすく展開します。

二人の運命的な接点が生まれたのは1975年(昭和50年)の夏でした。当時、福岡でジャズ喫茶のマスターやボウリング場の支配人などを務めながら、仲間内で独自の密室芸を披露していたタモリ(本名・森田一義)。その並外れた面白さが口コミで東京の文化人界隈に伝わり、ジャズピアニストの山下洋輔や作家の筒井康隆らが「どうしても見たい」と福岡へ遠征する事態に発展しました。

東京へ招かれたタモリが新宿のバーで披露したのが、のちに伝説となる「イグアナの形態模倣」や「インチキ外国語」でした。その現場に居合わせたのが、当時すでに『天才バカボン』や『おそ松くん』で押しも押されもせぬ大スターだった赤塚不二夫です。赤塚はタモリの芸を一目見るなり床を転げ回って大爆笑し、「こいつは絶対に本物の天才だ。絶対に福岡へ帰してはならない」と即断しました。

ここから、現代の常識では到底考えられないタモリと赤塚不二夫の居候生活が幕を開けます。赤塚は新宿区内に所有していた高級マンションの一室をタモリにまるごと明け渡し、自身は近隣の仕事場やホテルを転々とするという奇行に出ました。家賃の負担がないばかりか、高級外車ベンツのキーを預け、さらには毎月現金20万〜30万円のお小遣いを無条件で支給し続けたのです。当時の大卒初任給が約9万円弱であった時代背景を鑑みれば、その支援がいかに桁外れであったかが分かります。

赤塚の行きつけのバーや高級寿司屋には「タモリが飲み食いした分はすべて私のツケにしておけ」と指示が通っており、タモリは何不自由なく東京の文化サロンの空気を全身に吸収していきました。恩人である赤塚が注いだこの規格外の先行投資こそが、テレビタレント・タモリを生み出す決定的な土台となったのです。