かつての武家社会において、仇討ちは「親や主君を殺害された子が、幕府や藩に届出を行い公認を得た上で行う義務」として法体系に組み込まれていました。江戸幕府の『公事方御定書』でも敵討は制度化され、忠孝の実践として社会的に称賛される土壌が存在していたのです。
しかし、明治維新を経て欧米近代法を導入する過程で、この風習は国家統治の大きな障害となりました。明治政府は1873年(明治6年)2月7日、太政官布告第37号として「仇討禁止令」を公布。「人の生命を奪う権利は国家の司法にのみ帰属する」と明言し、数百年にわたる仇討ちの歴史に法的な終止符を打ちました。
この禁止令が出された7年後、日本の歴史に刻まれる劇的な事件が勃発します。それが日本最後の仇討ち 臼井六郎による復讐劇です。
1868年、秋月藩(現在の福岡県)の執政であった臼井六郎の両親が、対立派閥の藩士・一瀬直久らによって暗殺されました。当時わずか11歳だった六郎は復讐を誓い、仇の足取りを追い続けます。一瀬は維新後に司法省へ入り、なんと東京上等裁判所の判事(現在の裁判官)にまで出世していました。そして1880年(明治13年)12月17日、六郎は東京・日比谷の裁判所敷地内で、執念の末に一瀬を短刀で討ち果たしたのです。
当時の裁判記録によると、六郎は犯行直後に警察へ自首し、正々堂々と本懐を遂げた旨を供述しました。世論は「親の仇を討った義士」として同情を寄せ、減刑嘆願運動まで巻き起こりましたが、近代司法を確立しようとしていた政府の態度は冷徹でした。旧刑法草案(後の明治13年刑法)の精神に基づき、謀殺罪(計画殺人)として終身禁錮刑が言い渡されます。後に1890年の大日本帝国憲法発布に伴う恩赦で釈放されたものの、国家が「いかなる事情があれ私刑は断じて許さない」という断固たる姿勢を内外に知らしめた象徴的な事件でした。