宇多田ヒカルの長きにわたるキャリアの中で、唯一紅白歌合戦の舞台に名を連ねたのが、2016年の『第67回NHK紅白歌合戦』でした。この年は彼女にとって約6年間の「人間活動」という名の活動休止から復帰を果たした記念碑的な年であり、NHK連続テレビ小説『とと姉ちゃん』の主題歌として書き下ろされた『花束を君に』が社会的な大ヒットを記録していました。
しかし、この歴史的な初出場にあたっても、彼女が東京・渋谷のNHKホールのステージに現れることはありませんでした。選択されたのは、自身が生活の拠点とし、楽曲制作を行っているロンドン市内のレコーディングスタジオからの生中継という極めて異例のスタイルでした。当時、現地時間は夕方前であり、厳格に管理された音響ブースから、静謐かつ圧倒的な歌声を日本のお茶の間へと届けたのです。
この中継が実現した背景には、ドラマ主題歌として1年間にわたり作品を愛してくれた視聴者への感謝を返したいという本人の純粋な意向がありました。同時に、ロンドンという自身が精神的にも技術的にもコントロールできる環境を整えられたからこそ成立した「奇跡的な例外」だったと言えます。当時の生放送で見せた、歌い終えた直後の安堵に満ちた表情と、飾らない微笑みは、彼女がどれほど1回のパフォーマンスに全神経を注ぎ込んでいるかを如実に物語っていました。