元チェッカーズ高杢禎彦の現在と確執の真相|解散理由と再結成を徹底追究! 知っておきたい トピックの裏側を凝縮して配信します。

多くのファンが抱き続ける最大の疑問が、リードボーカルの藤井フミヤと高杢禎彦の間に走った亀裂の真相です。福岡県久留米市で出会った2人は、十代の頃から同じ夢を追いかけた親友同士でした。しかし、その親密さこそが、皮肉にも修復不能な亀裂を生み出す土壌となってしまいました。

表向きには「メンバー個々の音楽性の違い」と発表されたチェッカーズ解散理由ですが、水面下では複数の要因が複雑に絡み合っていました。チェッカーズ不仲の原因における最初のターニングポイントは、1986年頃の「セルフプロデュース(自作曲)への移行」でした。デビュー当初、芹澤廣明氏や売野雅勇氏のプロデュースによって『ギザギザハートの子守唄』『涙のリクエスト』などヒットを連発していた彼らですが、アーティストとしての自立を目指し、自分たちで楽曲制作を手掛ける方針へと舵を切ります。

その際、シングル表題曲を藤井兄弟(フミヤ・尚之)の楽曲が独占する構造が定着していきました。一方で、高杢や鶴久政治も自作曲をコンペに提出していましたが、採用されるのは主にアルバム曲やB面。このクリエイティブ面での序列化が、メンバー間の力関係を徐々に歪めていったと報じられています。

さらに決定的な亀裂をもたらしたのが、1990年前後に浮上した「個人事務所の設立をめぐる独立問題」でした。バンドの看板であり圧倒的な人気を誇る藤井フミヤを主軸に置くマネジメント方針に対し、幼馴染の対等な共同体であることを望む高杢たちとの間に、ビジネス感覚の決定的な乖離が生じたのです。「フミヤとその他」という構図が強まるにつれ、楽屋でも会話が途絶え、リハーサルですら目を合わせないほどの冷え切った関係に陥っていきました。

当時の特番インタビューや自著・手記で語られた「同じ空気を吸うことすら息苦しかった」という告白が象徴するように、かつての結束は消え失せ、1992年のNHK紅白歌合戦のステージをもって、グループは10年間の活動に終止符を打ちました。