ネット上の読者感想や知恵袋などの投稿を見ると、「清少納言は自分の機転を自慢しているだけではないか」「マウントを取って得意気になっている」といった声が散見されます。しかし、当時の歴史的事実と宮廷の政治状況を深く掘り下げると、この解釈が大きな誤解であることが分かります。
この時期(長保年間)、中宮定子の実家である中関白家(藤原道隆一族)は、父親の道隆が病死し、兄の伊周(これちか)らが失脚(長徳の変)したことで、政治的に急速に追い詰められていました。一方で、藤原道長が権力を掌握し、宮廷の権力バランスは激変していたのです。
そのような緊迫した状況下で、道長派にも近い実力者・藤原公任からの「問いかけ」に失敗することは、「中関白家の後宮サロンは教養もセンスも落ちぶれた」という格好の攻撃材料を与えてしまうリスクを孕んでいました。
清少納言が「わななくわななく(震えながら)」歌を書き、「胸つぶるる心地」と記した背景には、個人的な見栄などではなく、「愛する主君・定子の名誉を絶対に傷つけるわけにはいかない」という、サロンの看板を背負ったギリギリの覚悟と忠誠心があったのです。