昭和40(1965)年、東芝は戦後最大の存亡の危機に瀕していました。売上高の急減と巨額の赤字、さらには戦後初の無配へと転落。重厚な官僚体質と各事業部のセクショナリズムが蔓延し、社内には諦めと他責の空気が充満していたといいます。この絶望的な局面で白羽の矢が立ったのが、当時すでに石川島播磨重工業の社長として合併劇を成功させ、同社を世界一の造船会社へと育て上げた土光敏夫でした。
東芝社史および自著『私の履歴書』の記録によると、東芝の相談役であった石坂泰三(当時・経団連会長)から「東芝を救ってくれ」と頭を下げられた土光氏は、就任初日から本社の空気を一変させました。就任初日の朝7時半、役員が誰も出社していない本社に姿を現した土光氏は、重役室の豪華な調度品や専用車、専属給仕といった既得権益を即座に見直します。そして、経営陣と全社員に向けて放った言葉が、今なお語り継がれる伝説の一喝でした。
「社員はこれまでの3倍働け。重役は10倍働け。私はそれ以上に寝ないで働く」
東芝再建の経緯において特筆すべきは、土光氏が単なる精神論者ではなく、冷徹なまでの現場主義者であった点です。社長室に閉じこもることを極度に嫌い、神奈川県川崎市の工場をはじめ全国の拠点を作業着姿で巡回。現場の技術者や工員と直接言葉を交わし、不合理な社内手続きを次々と撤廃していきました。一方で、現場の士気を高める設備投資や研究開発費は削らず、経営中枢の無駄を徹底して削ぎ落とす手法を採用。この強烈なリーダーシップにより、東芝は就任翌年には復配を果たし、奇跡的なV字回復を成し遂げたのです。