ふたりの出会いは1970年代初頭、アンダーグラウンド演劇が熱狂的な盛り上がりを見せていた自由劇場の研究生時代にさかのぼります。役者としての成功が見えない極貧の下積み生活の中、互いの情熱と人柄に惹かれ合い、1973年、高田純次が26歳の時に結婚を決断しました。
しかし、結婚と同年に長女を授かったことで、現実は甘くない局面に直面します。当時の劇団員の収入は皆無に等しく、電気やガスが止められるほどの赤貧生活を強いられていました。自著や過去のインタビューで高田純次が明かしたところによると、彼は愛する妻子を飢えさせないため、役者の道を断念して「銀座ジュエリーマキ」の母体企業へ就職し、宝石の営業販売員として働く道を選びました。
持ち前の対人魅力と営業センスでトップクラスの成績を収め、安定した収入を得ていた高田純次でしたが、心の中にある演劇への未練を見抜いていたのが妻の勢子夫人でした。1977年、旧知の仲間であった柄本明やベンガルらが旗揚げした「劇団東京乾電池」への合流を打診された際、夫人は安定したサラリーマン生活を手放すリスクを責めることなく、「やりたいことがあるならやってみたら」と背中を押したと伝えられています。