文学的・心理学的アプローチから宿儺という存在を分析すると、彼が体現していたのは「他者承認を一切必要としない、究極の自己完結型エゴイズム」でした。
『呪術廻戦』に登場する多くの術師や呪霊は、他者からの愛、孤独の埋め合わせ、存在証明といった執着に囚われていました。五条悟ですら「誰にも理解されない最強の孤独」を抱え、鹿紫雲一や万は宿儺に「愛」や「理解」を求めました。しかし宿儺はそれらを「身の丈に合わせて生きればよいものを、なぜ他者に自分を測らせるのか」と一蹴します。
宿儺にとっての生きる基準は「旨いものを食い、邪魔なものは殺す」という自身の快・不快のみ。他者との共感や承認を求める現代的な病理から完全に解脱したその姿勢は、絶対悪でありながらも一種の「究極の自由」として読者に強烈なカリスマ性を感じさせました。しかし、この徹底した孤高の哲学は、他者と繋がり、痛みを分かち合いながらバトンを繋ぐ虎杖悠仁の「循環する命の美学」と真っ向から衝突することになります。