美濃の蝮・斎藤道三の正体とは?親子二代説と信長を唸らせた先見性の詳細について、専門知識を取りまとめてご紹介します。

家督を譲った後、道三と嫡男・斎藤義龍の間には深い亀裂が生じます。義龍の実母は土岐頼芸の愛妾であった深芳野(みよしの)であり、義龍自身が「自分は道三の子ではなく土岐頼芸の血を引く落胤ではないか」という強い出生の疑念を抱いていたことが確執の引き金とされています。

加えて道三自身が、体格に恵まれながらも愚鈍に見えた義龍よりも、弟の孫四郎や喜平次を偏愛し、家督の再廃立を画策したことで衝突は決定的になりました。1555年、義龍は仮病を使って弟二人を稲葉山城に呼び寄せ、惨殺。父への宣戦布告を行いました。

翌1556年、両者は長良川の戦いで激突します。美濃の国人衆の大半は、土岐家の血筋を標榜し人望を集めた義龍方に味方し、義龍軍1万7500人に対し、道三軍はわずか2700人余り。圧倒的な兵力差の中、道三は自ら槍を振るって奮戦したものの、多勢に無勢で討死を遂げました。

道三は死の直前、信長に向けて「美濃一国を織田上総介(信長)に譲り渡す」という遺言状(国譲り状)をしたため、使者を走らせました。自らの息子を見限り、天下を託すに足る真の器量人として信長を選び取った道三の最期は、血縁を超えた冷徹な合理主義者としての生き様を鮮烈に示しています。