謙信の死後、養子である上杉景勝(謙信の甥)と上杉景虎による家督争い「御館の乱」を経て景勝が当主となります。景勝は豊臣秀吉に臣従して「五大老」の1人に名を連ね、越後から会津120万石へと加増移封されました。
ところが慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが上杉家の運命を一変させます。徳川家康の詰問状に対して重臣・直江兼続が「直江状」を返書し、徳川軍に対峙。西軍が敗北した結果、景勝は家康への謝罪を余儀なくされ、慶長6年(1601年)に出羽国米沢(山形県米沢市)30万石へ減封となりました。石高が4分の1に激減したにもかかわらず、景勝と兼続は家臣をほとんど解雇せず召し連れたため、米沢藩の上杉家は成立当初から極端な財政難を抱え込むことになります。
さらに寛文4年(1664年)、3代藩主・綱勝が急死した際、末期養子の手続きが遅れたことで改易の危機に直面。吉良上野介義央の長男である綱憲が急きょ養子入りして家名存続は認められたものの、領地は15万石へと半減され、財政は完全に破綻の淵へと追い込まれました。