桑野信義にとって、抗がん剤治療による手足のしびれは「命を削られる以上の苦痛」を意味していました。トランペットは、唇の微細な振動(アンブシュア)と指先によるミリ単位のバルブ操作によって音程をコントロールする極めて繊細な楽器です。唇の感覚が麻痺し、マウスピースを当てても自らの唇の位置すら分からない状態に陥ったとき、彼は一度は楽器を手放すことすら覚悟したといいます。
その絶望を打ち破ったのは、盟友・鈴木雅之ら「ラッツ&スター」の仲間たちの存在、そして2020年3月に急逝した恩師・志村けんさんへの誓いでした。『バカ殿様』で長年息の合った掛け合いを演じてきた志村さんの死に際し、桑野信義は深い悲しみに暮れていました。しかし、自らががんの宣告を受けたとき、脳裏に浮かんだのは志村さんの厳しいながらも温かい叱咤だったと語ります。
「殿(志村さん)が天国から『おい桑野、お前がこっちに来るのはまだ早いよ。もっとラッパ吹いて人を笑わせてから来い』と押し返してくれたんだと思う」——この想いを胸に、彼は感覚を取り戻すための基礎練習を毎日欠かさず繰り返しました。指先のマッサージと地道なロングトーン練習を重ね、ついにステージ上でトランペットのファンファーレを響かせた瞬間、会場は割れんばかりの拍手と涙に包まれました。
また、闘病の全期間を通じて父親を現場で支え続けたのが、ミュージシャン・DJとして活動する長男のMASAでした。MASAは日々の通院への付き添いや身の回りの世話、食事管理から精神的ケアに至るまで献身的にサポート。桑野信義は「息子がいなければ、途中で心がポキリと折れていたかもしれない」と語っており、父子の深い絆が奇跡の復活を支える強固な基盤となったことは間違いありません。