昭和歌謡界の黄金期を語るうえで、常にメディアの格好の標的となってきたのが田原俊彦 近藤真彦 不仲説です。当時のアイドル雑誌や芸能ワイドショーは、赤と青の衣装を着せ、賞レースで激突させるなど、意図的に「宿命のライバル」という二項対立の構図を過熱させました。
しかし、当時の合宿所を知る芸能関係者や、後に本人たちが語ったインタビューの証言を検証すると、世間が思い描くような陰湿な確執とはまったく異なる真実が見えてきます。10代の多感な時期に、殺人的な過密スケジュールと凄まじいファン・マスコミの包囲網の中で寝食を共にした彼らは、敵対関係というよりも「戦友」と呼ぶべき特殊な絆で結ばれていました。
自著や特別番組で田原自身が述懐しているように、デビュー当時は「トシちゃん」「マッチ」とお互いに認め合い、合宿所で夜遅くまで語り合う仲でした。しかし、毎年のレコード大賞や新人賞レースを巡り、周囲のスタッフやファン同士が代理戦争のように激しく対立した結果、現場では無用なトラブルを避けるために意図して「心理的ディスタンス」を置かざるを得ない状況へと追い込まれていったのです。
この張り詰めた関係性の中で、極めて重要な役割を果たしていたのが野村義男の存在でした。野村は当時を振り返る番組で「トシとマッチの間に挟まれて大変だったんじゃないか、とよく言われるけれど、僕は真ん中で2人の凄い熱量を一番近くで面白がっていただけ」と軽妙に語っています。自己主張の強い2人のスターの間で、穏やかで誰からも愛される野村が「緩衝材(バランサー)」として機能したからこそ、トリオとしての絶妙な調和が保たれていました。