戊辰戦争の処刑と切腹の闇|近藤勇と小栗忠順が斬首された真の理由に関する話題のニュースを分かりやすく解説します。最新情報を求める方は必見です。

敗軍の将たちの処刑現場はどのようなものだったのか。当時の従軍日誌や刑吏の手記、現地の口伝記録を突き合わせると、板橋刑場と首実検の寒々しい情景が浮かび上がります。

近藤勇の処刑を担当したのは、板橋宿近くに陣を張っていた薩摩藩士と土佐藩士でした。処刑当日、近藤は衣服を整え、従容として刑場に座したと伝えられています。執行役を務めた横倉喜三次らの記録によると、首が切り落とされた直後、首級は筵(むしろ)の上に置かれ、敵味方の将校が立ち会う中で厳格な「首実検」が行われました。その場にいた土佐藩士たちは、積年の恨みを晴らしたかのように首輪を検分し、すぐさま塩漬けにされて京都へと送還されたのです。

この近藤の壮絶な刑死と軌を一にするように、激動を駆け抜けた新選組幹部の最期まとめを俯瞰すると、隊士たちそれぞれの散り際にも残酷な格差が刻まれています。

  • 土方歳三(副長):箱館戦争の激戦地・一本木関門において、敵の銃弾を腹部に受けて壮絶な戦死。武士としての名誉を最後まで戦場で貫いた。
  • 沖田総司(一番隊組長):近藤勇斬首からわずか2か月後、近藤の死を知らぬまま江戸千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅にて肺結核で病没。
  • 井上源三郎(六番隊組長):鳥羽・伏見の戦いで銃弾に倒れ戦死。首級は甥によって持ち帰られようとしたが重さに耐えかね途中に埋葬された。
  • 山南敬助(総長):元治2年、隊の脱走を試みて捕縛。近藤や土方の情けにより武士としての名誉を守り切腹。
  • 斎藤一(三番隊組長):会津戦争を生き延び、明治維新後は警視庁に入隊して西南戦争に従軍。大正4年まで生き抜き天寿を全う。

戦場で華々しく銃弾に倒れた土方や病死した沖田に対し、近藤勇だけが「公権力によって断罪された罪人」として首を晒されるという、最も過酷な十字架を背負わされたのです。