1873年10月、対立は政府の最高意思決定機関である閣議で頂点に達しました。留守政府の決定を守ろうとする西郷に対し、大久保らは辞任をちらつかせて激しく抵抗します。板挟みとなった太政大臣(現在の首相に相当)の三条実美は、極度の重圧と心労により突然脳卒中で倒れ、意識不明の重体に陥りました。
この危機的間隙を縫って、右大臣の岩倉具視が太政大臣代理に就任します。岩倉は大久保と連携し、明治天皇に対して「西郷を派遣すべきとする閣議意見」と「派遣を延期すべきとする岩倉自身の意見」の両論を併記して上奏するという奇策に出ました。結果として天皇は岩倉の意見を容れ、西郷の使節派遣は正式に無期延期(事実上の却下)となりました。
決定が覆されたことに深く失望した西郷隆盛は、即座に参議・陸軍大将の職を辞して鹿児島へと帰郷します。これに呼応して、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣ら参議5名全員が辞表を提出して下野しました。さらに西郷を慕う軍人や官僚ら約600名余りが一斉に辞職して東京を去るという、空前絶後の政治クーデター「明治六年政変」が完了したのです。