華厳の滝でなぜ自殺が相次いだのか|藤村操の遺書と120年の歴史に関する深掘り解説を分かりやすく解説いたします。

新緑が日光の渓谷を彩っていた1903年(明治36年)5月22日、16歳(数え年で18歳)の一人の青年が華厳の滝の断崖から身を投げました。彼の名は藤村操(ふじむら・みさお)。北海道出身で、当時は東京大学への進学が約束されていた最高峰のエリート校・第一高等学校(旧制一高)に在学していた超俊英でした。

当時の旧制一高生といえば、将来の国家を背負う高級官僚や学者候補として社会から特別な羨望を集めていた存在です。富国強兵と立身出世が国家目標として掲げられていた明治の絶頂期において、恵まれた環境と才能を持つはずのエリート青年が自ら命を絶ったニュースは、瞬く間に全国の新聞で大々的に報道され、社会全体に巨大な激震を走らせました。

この事件がさらに世間の耳目を集めた背景には、当代随一の文豪・夏目漱石との関係がありました。漱石は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の後任として、事件のわずか1か月前である1903年4月から一高の英語講師に着任していました。藤村はその直接の教え子だったのです。

当時の記録や回想録によると、投身の数日前、漱石は授業中に予習を怠っていた藤村を激しく叱責したと伝えられています。藤村の訃報を聞いた漱石は計り知れないショックと自責の念に苛まれ、持病の神経衰弱を急速に悪化させることになりました。後に漱石が発表した小説『草枕』において、藤村の死を連想させる「青年が自ら命を絶つ動機」についての思索が綴られ、晩年の代表作『こころ』に描かれた知識人の内省と孤独にも、この事件が色濃く影を落としています。